農村の地であった大正時代の狛江内で、唯一町めいていたのが『銀行町』だったそうです。
現在の世田谷通りと狛江通りがぶつかる狛江三叉路の辺りです。
今の世田谷通りはまだできていませんでしたが、ほぼ重なる青山方面からの旧道がここで二つに分かれ、調布方面に向かう旧道と、猪方と和泉の境界を通り登戸の渡しに続く旧大山道の別れ道でした。当時の狛江では最も大きな幹線道路の三つ辻でした。
『銀行町』という地名は現在はもちろん、実は当時もありませんでした。
このマップは『思い出の銀行町』掲載のものに現在の地図を重ねたものです。
主要な幹線道路が今と違うのがわかりますね。
明治33年(1900年)この三つ辻に旭貯金銀行狛江市店ができました。その後明治40年(1907年)には勧業貯蓄銀行本店が浅草より移転。しかし翌明治41年(1908年)旭貯金銀行狛江市店は閉店してしまい、勧業貯蓄銀行のみとなります。ちなみに旭貯金銀行は大正3年(1914年)に倒産してしまいます。
この頃から料理屋、飲み屋、床屋、カフェなどができてきました。
しかし大正10年頃(1921年頃)勧業貯蓄銀行も廃業してしまいます。
肝心の銀行はなくなっていしまいましたが、関東大震災を挟んで銀行町は急速な発展を迎えていきます。
昭和2年(1927年)小田原急行鉄道(現 小田急線)が新宿〜小田原間で開業し狛江駅も誕生。同じ年に現在の世田谷通りと狛江通りが開通します。
また世田谷乗合自動車が三軒茶屋〜国領間でバスの運行をはじめます。
この頃、銀行町に東陽倶楽部という芝居小屋ができました。
小屋と言っても本格的な2階建ての建物で舞台も広かったようです。1階席は板の間にむしろを敷き、2階にも観覧席があり、300人ほどが入ることもあったそうです。
旅役者の田舎芝居、義太夫、浪花節、喜劇、奇術、催眠術、大歌舞伎や映画まで月に2〜3の出し物が入れ替わり興行されました。
入場料は大人30銭、子供15銭で、狛江内はもちろん、狛江以外からも見物客が集まったそうです。
また、ときには二子や調布から芸者を呼ぶ宴があったりしたそうです。客筋は狛江だけでなく砧、喜多見、入間、深大寺、登戸などからも集まりました。当時は農家がほとんどで嫁不足だったので、銀行町に通いやがて所帯を持った人は大勢あり、村の活力をたかめたそうです。土地の人との縁結びが、この盛り場の特色とも言えそうですね。
昭和8年(1933年)狛江青物市場が開設されると、三軒茶屋方面からも八百屋さんが仕入れに来るようになりました。この方たちを当てこんで食堂ができ流行りました。
この町の商店は、すべて若い創業者の集まりで、それだけに各々が工夫を凝らし、客の求めに応えようと助け合い、競い合いました。
穀屋(のちの米屋)、栄泉堂(菓子)、丸甚(呉服)、栄喜屋(下駄)、山木屋(紺屋)、鳥政(鳥肉)、足袋屋、写真屋、種屋、自転車屋、床屋などが立ち並び、この頃の銀行町は活気にあふれていたそうです。
昭和10年頃(1935年)頃には狛江の文化経済の中心として村内はもとより、遠くは高井戸方面からも足を運ぶひとも多くなりました。
交通事情がよくなった狛江には、昭和12年(1937年)の日本フィルモン設立に続き、工場の新設が相次ぎました。それに伴い建設に携わる人や工場に勤務する人などの出入りが多くなり、狛江の人口も急激に増えていきました。
こうして多くの人々に愛された銀行町も太平洋戦争に突入した昭和16年(1941年)以降は急速に活気を失いつつ終戦を迎えることとなったそうです。
参考文献:『思い出の銀行町』